「結局は人それぞれの部分が多いのが世の中」 (追記あり)

「結局は人それぞれの部分が多いのが世の中」という主張で論じたいと思います。

 

人それぞれと聞いて思い浮かぶ分野は私なら「主観的要素が強い分野」、すなわち、「趣味や食べ物や価値観系の話」になります。

 

 

人の趣味の多様性に文句をつけるべきではないですし、食べ物の好き嫌いも同じです。または、異性の好みも該当するでしょう。

 

ライフスタイルもそれに入るかもしれません。大枠では価値観系に入ります。

 

人生設計や職業の多様性も、価値観系に入るでしょう。

 

ただし、人それぞれとはいえ、勝者になりやすい価値観というのはあります。それは高学歴なら、知的分野で稼げる確率が高まるのもそうですし、異性でもイケメンや美人なら、子どももそうなりやいと言えます。

 

そして、思うのが世の中の主張とは究極的にいえば、「人それぞれ」「人による」という主張の割合が多いということです。

 

それが多数派なのか、それとも中間ぐらいか、少数派なのか、外れ値なのかという違いはありますが、主張とは「人それぞれ」な割合が多いと思うのです。

 

人生戦略では私は「人生に絶対に目的は必要なのだろうか?」と問いかけています。仕事ではPDCAサイクルを踏めとよく言われますし、同意します。しかし、人生戦略という視点で見たら、絶対に必要なのかは疑問です。

 

会話にも、目的のある会話と目的を求めない会話があります。人生にも目的がない時間を使う時期があるでしょう。私は目的が定まっていない期間は、とにかく何かスキルを磨けと思っています。後に、それが役立つ、使える可能性があるからです。目的がないからといって、何もしないよりはマシという主張です。

 

しかし、これも人によるのでしょう。人生は常に目的ありきなんだと考え、目的のない期間は何もしない人もいるかもしれません。それはその人の自由です。私はそれこそ、人生の無駄遣いの時間の使い方だなと感じるのですが。

 

また、どんな主張にも、その人の価値観は反映されます。成功者や起業家や社長などに本を読む人が多いのは事実ですし、出世するつもりだったり、有利に生きたいなら、本を読んだほうがいい点は私は譲りませんが、別に出世するつもりもなく、有利に生きるつもりもないのなら、本を読む必要もないかもしれません。

 

私は「絶対に本を読め」とは言いませんが、人生、不利になるや出世はきつくなるかもとは言っておきます。また、身内には私は本を読むように勧めることが多いですが、それは身内だからです。ですが、拒否られており、そのため、私は今、放置気味です。

 

勝者になりやすい価値観は当然あるのです。そして、人それぞれという多様性が許されるのも、勝者の割合が多く、世の中が豊かな場合だけです。貧しくなってきたら、人それぞれの許容度が下がり、多様性が減っていくでしょう。

 

ある意味、多様性豊かということは、国力を反映しているのです。

 

「人それぞれ」の部分は多いです。一つの主張にせよ、絶対的に100%と断言できるのは、自然科学ぐらいなものでしょう。社会科学や人文科学では、外れ値などの例外があります。人間が絡むので、統計的に有意であるとか、多数に当てはまるとしか言えないわけです。

 

コンピュータの世界は、答えは決まっているケースが多く、ミス入力(プログラミングにせよ)したら、動かなくなります。コンピュータは正直です。

 

「人による」という部分が多いのが人文科学や社会科学なので、そういう分野を扱う場合は、統計的に有意であるかとか、外れ値の存在はあるよと示すことなどで主張の精度や正しさを主張するしかなくなります

 

まぁ、大雑把に言えば「どれだけ多数派が言っているか、思っているか」で、常識かどうか判断されます。

 

しかし、2対6対2の法則があるように、自分の主張をすれば2割の反論やアンチ層が湧いてくるのが世の常です。必ず、反論者がいます。そういう層を相手にするかどうか悩みますよね。

 

そして、自分の主張に全面的に同意か賛成、またはファンの人が2割ぐらいいるのです。さらに、6割のどっちでもない無関心層や浮動票層がいます。

 

自然科学の世界では、「人それぞれ」なんてなく、物理的法則に基づいて動いているでしょうから、正しければ反論はないのです。(ですが、科学である以上、反証されることはあります)

 

「人それぞれ」の分野で主張しているから、皆、分かり合えないのです。少数派だとしても、その人たちはそういう価値観であり、言い分がありますしね

 

そう考えると、「人それぞれの分野」で議論しても徒労に終わるケースが多いと感じます。人文科学や社会科学の議論では、このことを意識して議論する必要があるでしょうね

 

さて、本の評価でも、いくら質が高いと多数が思う本でも、低評価を下す少数派はつきものです。本の評価軸には以下があります。

 

1 多数が高い評価をつけるケース。いわゆる質の高い本。(少数だけが低評価をつける)

2 多数が低い評価をつけるケース。いわゆる質の低い本。(少数だけが高評価をつける)

3 半々ぐらいの評価にわかれる本。いわゆる賛否両論の本。(高評価も低評価も同じぐらいか、割合が近い。6対4とか、4対6とか)

4  そもそもレビューがほとんどつかない本。いわゆる隠れた本。(高評価だけがついている場合と、低評価がついている場合がある)

 

 

私が名著と呼ぶのは、だいたい1のケースが多いです。ですが、たまに3と4もあります。さすがに2は外すことが多いと思います。

 

ですが、出版の世界(ビジネス書は特に)はベストセラーは1が多いのです。しかし、私はベストセラーは好きではありません。そういう売れたベストセラーはあまり勧めません。

 

それより、隠れた名著である1か3か4のケースの本を勧める場合が多いです。

 

本の場合、ベストセラーほど、凡庸なケースが多いのです。やはり難易度というものがあり、ライト層やあまり知的ではない層に読まれるためには、難易度を下げないといけません。そういう本は差別化としては使えなく、差がつかない本なので、私は嫌うわけです。

 

このように、価値観は本当に人それぞれなので、世の中は難しいなぁと思います。あまり、まとまりませんでしたが、以上です。

 

最後に(ちょっと長いですが)、この記事を書いたのが11月3日の夜だったと思います。で、私が引用元をつけないと言っていたブログ(あちらも引用元をつけないので)の記事がなんか、今回の記事と内容が似ているのです。その人はさすがに出版社とは関係ないでしょうから、パクられたとは思わないのですが、アイデアは似るということでしょうか。今回のパクられ度は私の中では10〜20%ぐらいであり、可能性としてかなり低く見積もっています。まぁ、偶然かなぁ。

 

ブログ公開後にパクられるというか、参考にされていることはかなりありましたが(こちらも相手のブログ記事を参考にしたことは多々あります)、非公開の時点で参考にされたことはなかったと思うので、ちょっと疑ったのですが、まぁ、偶然でしょう。これが何回も続くようなら、下書き段階で盗まれている(何かしらの手段で)ことを疑わないといけなくなるかもですが。

 

基本的に、私は打席や回数でその人の実力やパクられているなどの疑惑が本当かどうか判断します。

 

打率10割でも、1打席1打数なら、偶然の可能性も高いですが、10打席10打数なら、かなり信憑性が上がります。これが100打席100打数(こんな例はないですが)だとしたら、本物でしょう。

 

MARCH層の2人も、かなりのチャンスを与えたと思います。(こう書くと上から目線に感じられそうですが) つまり、チャンスというか打席や回数を見たわけです。そして、その回数は最低でも20回は超えており、それでも直らなかったから、私は呆れて、縁を切ったのです。

 

MARCH層の1人は性格や態度が悪い点が直らなかったこと、もう1人は知能は高いかもしれませんが、コミュ力が極端に低く、迷惑行為に近いことをやめなかったこと(頻繁に電話やLINEを送ってくるなど)が私が縁を切った理由です。

 

以下の記事でも、性格はそう簡単に直らないから、「彼の性格を直すよ」は信じない方がいいと書かれています。本当に、その通りです。

 

ちなみに、ビジネスだと、1勝9敗でもOKな場合があります。あくまで、性格や個人的付き合いや、パクラレ度の信憑性や疑惑などの話です。

 

最後なのに話が長くなりましたが以上です。