教育の最終的な目標

以下の記事で、私が提唱する教育の最終的な目標、人材像が書かれています。

 

以下、抜粋します。

 

 

文科省の代わりに、今まで読んできた本と考え尽くしてきたアイデアを総合して、日本の教育の構想を打ち出すことにします。

 

私の願望も含まれていることはご承知ください。(私自身がなりたいや、私が親だったから、こういう子育てをしたいなという意味です)

 

文科省が大学教育改革で求めている能力は、「思考力・判断力・表現力」と「主体性・多様性・協働性(共同性に変更か?)」です。

 

私が主張する、大学受験かつ大学卒業まで(もしくはそれ以降。つまり社会人)に求める人材像や能力は、「自立した人材」「大学の学習についていけるための基礎知識」「創造力・実行力・表現力」「予測力と気づく力と鈍感力」です。

 

比較してみてください。以下、詳しく説明していきます。

 

「自立した人材」とは「OS部分」「知識・技能面」があります。OS部分の「自立した人材」とは「基本的に自己責任原則において、主体的に判断、行動するが、頼るべき時は頼る力(協働性)を持っている人材」と定義します。

 

「知識・技能面」は人によって差があります。弁護士やパイロット並みの高度知識・技能を持っている人もいれば、企業で普通に働く知識・技能の人もいます。

 

OS部分の「自立した人材」には誰もがなるべきだと思います。(重度の病気などの障害で働けない人を除いて)

 

主体的に行動、判断する力がないと、周りに左右されることになります。イノベーターは主体的に自分の意思を持って判断、行動していると思います。「ヨソ者、バカ者、若者」の3者においてイノベーターが多いそうです。バカ者はそういう人材でしょう。だからこそ、画期的で突飛な発言ができます。

 

協働性は世の中は1人では仕事はほぼ成り立たないので、皆で協力してやっていくことが重要という意味ですね。文科省も同じ考えでしょう。

 

基本的に主体的に判断、行動しますが、任せるべき時はきちんとした人材に任せ、チームで結果を出すということです。

 

「知識・技能」については、人それぞれ、能力や意欲によって差がつきます。簡単にいえば、「自分で飯を食べて、生活できる人」のことですね。

 

「高度知識・技能の人」は「自分で飯を食べて、生活できる上に高収入」になります。

 

以上のことが高校卒業か、社会人以降に普遍的に求められる人材です。「自立した人材」が多くなればなるほど、福祉の負担も減ります。

 

OS部分はあらゆる場面において、自分の判断に責任を持たせて行動させてみることが育成の鍵となると思います。ペーパー試験だけで、この能力を測るのは相当、難しいでしょう。

 

次に「大学の学習についていけるための基礎知識」について説明します。大学に入学したからには、大学の学習についていき、その内容を習得するのは当然と言えます。そのための基礎学力・知識を確認するのが大学受験でしょう。

 

「創造力・実行力・表現力」について説明します。以下、略。「予測力と気づく力と鈍感力」についても、略します。 以上、ここまで。

 

ここまで書いて思ったのですが、結局、「良い社会人を育てるのが教育の最終目標」だと思います。良い社会人ということは、「就活などが上手くいって、会社に入社か」、「公務員試験を受けて公務員になるか」、「フリーランスになるか」、「起業」などの道になります。

 

私の教育本は、民間で必要な人材像から逆算して、つまり「良い社会人を輩出する」ことを最終目標にして、大学、高校などの教育を語りました。

 

そして、良い社会人ということは、社会での成功を意味し、それは大規模なものから、小規模なものまでありますが、一応、皆、自立しているわけです。

 

社会での成功には、大学受験の学力だけでは無理というのは一般的に言われています。(IQだけでも無理であり、EQなど、今ではやり抜く力(GRIT)などが必要とまで言われています)

 

私が高学歴層や大学受験でのある程度の勝ち組と、教育について議論をしてきて思ったのが、彼らは就活ではほとんど成果を出せていないことです。つまり、民間、社会について知らずに、大学受験での成功例だけを頼りに、大学受験の高学歴重視派となっていたのです。

 

私からすれば、「社会で成功するには学力だけじゃ無理でしょ?」と言いたくなります。幅広い能力が必要なのです。

 

就活で成功し、就職してからも出世し、大成功した人達が本来なら、ある程度の指針やお手本になるはずです。私はそういう成功者(ビジネス書の著者など含め)を分析し、さらに、成功者だけじゃなく幅広い層まで対象として、教育改革の本を作ったわけです。

 

そう考えると、就活すら、ろくに戦えていない若者の意見、または社会に出ていない若者の意見をまともに、真に受けるのは良くないと思いました。教育改革で参考にするべきインタビュアーとして完全に不適切です。

 

社会人から聞くのが良いと感じます。社会人はやはり、厳しい世界を生き抜いていますから、最低限の礼儀はありますし、相手の時間を無駄にしません。しかし、大学生は、特に文系は膨大な時間を持て余していますから、相手の時間を奪うのに躊躇しません。

 

私の社会人の知り合いである敏腕営業マンや、20代前半の社会人女性、さらに、最近話した20代元社会人(今は転職活動中でして、採用は決まったそうです)と話していると、問題意識もはっきりしていますし、きちんと学ぼう、社会は厳しいという印象をかなり受けます。

 

対して、学生陣は、そんな態度は見せません。どちらかというと、大学受験で成功したから、または、教養があるから、社会人としても通用するだろうという甘い、楽観的な態度が多かったです。社会人と学生の問題意識、危機感にはかなり差があると感じました

 

また、大学受験までは成功して、就活で挫折する層はけっこういると思うのですが、これは「大学受験で求められるスキルと就活で社会で求められるスキルが一致しないから」です。この点からも、大学受験の成功組から、教育改革について聴くのは間違いだとわかります。「大学受験での成功という狭い視野」なのです。

 

「大学受験の時点で、就活で成功しそうな振るい分けをしたほうがいいのでは?」という意見もあります。理由は大学受験の成功者は、とにかくプライドが高くなりがちであり、さらに、就活で挫折するなら、大学受験の高学歴が意味ないからです。無駄にプライドだけ高い高学歴を作るわけです。

 

対して、「大学受験の時点では振るい分けをしない方がいいという意見派の人は大学受験で失敗したら自殺してしまうかもしれないので、せめて、高学歴だけでも与えて、納得感を得てもらったほうがいい」という意見があります。

 

まさに、社会で通用しない高学歴層の自己満足のために、大学受験を通過させるという案です。さらに、大学は成長の場であり、大学で成長する人がいるかもしれないので、時間の猶予を与えて欲しいという意見もあります。

 

私は、高学歴系は就活と一致させたほうがいいのでは?と思っています。高学歴系はそれこそ、就活をきちんと戦いぬき、エリートとして活躍するのを前提としているからこそ、高学歴な大学なわけです。それなのに、例えば、発達障害などで就活の時点で失敗する層がたくさんいて、見分けられるのであれば、大学受験の際に、振るい分けをするべきじゃないか?とも感じます。

 

ただし、東大の発達障害者率(アスペルガ−率)はかなり高いそうなのですが、理系のアスペルガ−は就職は何とかできるでしょう。問題は文系です。文系のアスペルガ−は営業職がまず無理なので、就職がきついのです。そういう層は、大学受験の際に、振るい分けした方がいいのでは?と思うのですよね。だって、就活で苦戦するのが見え見えじゃないですか。

 

この問題は、いろいろが議論があると思います。(一筋縄ではいきません)

 

さて、大学生の中でも将来有望なのは、理系の一流大学だと思います。彼らは将来有望株でしょう。しかし、文系の一流大学は、将来、不透明だと思います。特に、大学院の文系はヤバいでしょう。就職にも如実に表れています。理系の院卒は採用されがちですが、文系はあまり採用されません。

 

よく聴く話が、早稲田の政経などの一流大学生は入った当時は、野心満々なのに、卒業するときや、就活のときはもう、その野心が消えかけているというものです。「将来、政治家になる」「将来、弁護士になる」など、入った当時は勇ましかったのにです。とはいえ、大企業に入れるのですけどね、彼らは。野心が単に萎んだだけです。

 

日本での一流大学の価値について、以下の記事で、述べています。「学歴とはそもそも何であるか?」という記事ですね。


 

 

以上です。