理解力という概念

まず、以下の記事をお読みください。

 

簡単に要約します。

 

世の中には物事を理解するのに「スタート」から「ゴール」までの過程を理解力と定義するとして、その過程の段階を「どれくらいのステップを踏んで理解するか?」で理解力が測れると書いています。

 

ステップが極端に少ない人は「天才型」であり、周囲は理解できません。ある程度、少ない人が「秀才型」です。そして、ステップが極端が多い人が「話が長い」人です。最後に、TPOに合わせてステップを使い分けられる人が「適切な人」です。

 

理解力がない人を救う人とは「話が長い人」か「適切な人」だそうです。天才型と秀才型はステップが少ないので、理解しづらいからです。 以上、ここまで。

 

 

この話は、昔読んだ以下の本に載っていた記憶があります。(理解とはステップの数であるといいう話です)

 

 

 

また、私は以下の記事で、情報処理能力よりも理解力は大事だという話をしました。

 

 

そこでは、理解力とは「本質を掴むこと」だということを書きました。または、認識力でもあります。「この世の中の現象や現実をどのように認識しているか?」「どのような世界観を持っているか?」によって、生き方も行動も変わってきます。

 

情報処理というと、素速く、処理するイメージが強いです。「同じ情報に接していても、どのように解釈するか、理解するかは人それぞれ」ですので、情報処理と理解力(認識力や解釈力とも言うかも)は別物でしょう。

 

どの点を重要と見なすか?は人それぞれです。そこには自分の過去の経験談や価値観やバックグラウンドなどにより、捉え方が変わってくるのでしょう。「同じ本でも年齢によって感じ方、捉え方が変わるのは経験などにより、成長したから」です。

 

以下の記事で、重要な点を見なす視点は人それぞれ違うと書いています。

 

 

理解力という視点は洞察力へとつながります。「本質を洞察する」からです。本質を捉えることが人生、大事でしょう。理解力をステップの数と考えることもできます。または、本質を見抜くことでしょう。「要素や因子を見抜くのが上手い人のことを本質を掴むのが上手い人」と私は定義したいかなぁ。

 

理解力(認識力、解釈力など)の高い人とは、「ステップの数」を適切に理解していて、「本質を掴むこと」(要素や因子を見抜ける人)が上手い人と言えるかもしれません。理解するということはそのものの本質をきちんと掴むことです。それは「ゴール」とも言えるでしょう。

 

つまり、ゴール(本質)を掴むために、ステップの数をどれくらい踏むかによって、ゴールへの到達度へのスピードが違うか、またはステップをきちんと踏めないとゴールへ辿りつけないかになるわけですね。

 

でも、思うのですよ。ステップをかなり詳細に説明しても、著者と同じ理解(本質、ゴール)に到達しないケースがあると。それは、そのひとが経験したことがないからか、想像もできない、または信じられない、信じたくないからかは分かりませんが、ともかく、同じ理解(本質、ゴール)に到達しません。つまり、色眼鏡や偏見というスコトーマ心理的盲点)がかかっている状態というわけです。

 

だから、理解力を単純に「スタートからゴール(本質)へのステップの数」と定義するのはおかしいということです。ステップをいくら詳細に辿っても、ゴール(本質)にたどり着かない人がいるわけですからね。それは、その人の能力の限界か、スコトーマにより見えていないなどの理由があります。

 

この理解力という概念はいろいろな解釈ができそうです。あくまで、私の視点です。 

 

以上です。