「人間とは値踏み、比較する生き物である」

「人間は値踏み、比較する生き物である」というテーマで論じたいと思います。

 

まず、比較から説明していきます。

 

人間は比較するからこそ、自身を区別できます。極端な話、地球に自分1人しかいなかったら、自分が人間ということさえ、認識できないかもしれません。数人しかいなかったら、天才や特殊な病気の人などがいない可能性が高く、そういう人達と比較することもないでしょう。

 

つまり、人間社会に生きている以上、多様な人達を目にする機会が増え、私たちは以前より比較するようになりました。メディアの発達、特にネットの存在は大きいです。

 

Facebookでは、いろいろな人達がおり、自己をアピールしています。

 

 

ここで、値踏みの話をします。

 

値踏みとは、簡単に言えば「ランキング付けをすること」です。(値段をつけることですから)

 

それは人も対象にします。例えば、ゲームの「三国志」や「信長の野望」や「野球ゲーム」では能力値がパラメータ化、数値化されています。

 

他の例では女性や男性の外見などに、偏差値をつけたり、ABCDEなんのランキングをつける人もいるでしょう。(藤沢数希氏の小説では実際にABCDEなどのランキングがつけられています)

 

ランキング、パラメータ化は人によって幅の広さが異なります。「上手い、下手」という二分法の人もいれば、100点満点などもっと詳細に点数化する人もいます。(個人の詳細さ、厳密さの好みの問題かもしれません)

 

さて、比較と値踏みを統合すると、人間は「比較、値踏みする生き物」と言えそうですが、言葉の選び方の順番が大事なのです。もっと突き詰めていうと「値踏み、ランキング化する」とは「比較していること」なのです。値踏み→比較化の順番と言えます。

 

比較だけだったら、比べるだけですが、そこに点数をつけるのが値踏みなのです。値踏みまでするかどうかは個人差がありそうですが、比較はほとんどの人がしていると思います。つまり、比較化→値踏みの順番ではありません。

 

なので、人間はタイトル通り「値踏み、比較する生き物である」が正しいと思います。もちろん、もっと正確には人間は「比較する生き物である」(値踏みもやる場合がある)ですけどね。どちらもやるという表現にしたら、「値踏み、比較する生き物である」になり、ここではそう定義します。

 

さて、人間は 「値踏み、比較する生き物である」の具体的事例を見て行きましょう。

 

これは自分がする場合が多いのですが、盲点があります。気づいている人は気づいていますが、「自分がそうするということは他人にもされている」のです。

 

「他人にも値踏み、比較されている」のです。例えば女性は綺麗で若い子は、優秀な大人の男性と付き合ったり、接することができます。そういう大人たちを見てくれば、当然、普通の男子と接すると面白くないわけです。(この普通の男子はつまらない男だなと感じているわけです)

 

または、優秀な人と接している人は普通の平凡な人と接すると、「この人は退屈だな」と内心、ジャッジしているはずです。

 

これは人間以外にも当てはまります。一度、いい体験やサービス、モノに触れると、平凡な体験やサービス、モノがつまらなく思えるのです。

 

サービス業や娯楽業(映画などの芸術系含む)は苦しい戦いを強いられます。つねに、過去の優秀な作品と比べられるからです。より面白い、過去を超える作品を提供しないといけません。

 

人間は一度、「いいモノ」に触れてしまうと、それが基準になり、それ以下の品質のモノや人へのジャッジは厳しくなります

 

よって、今の若者の晩婚化が起きているとも考えられます。マイルドヤンキーが結婚が早いのは地元以外の世界を見てないからです。つまり、高望みしてないのです。

 

これが、高学歴女子になったり、都会に行くと、洗練された大人たちと触れるので、高望み傾向が出てきます。(基準値が上がるのですね)

 

そして、自分の魅力はその洗練された大人たちと同等ではないのに、基準値が上がってしまった結果、セフレにされたり、普通の男子では妥協できなくなり、婚期が遅れるわけです。

 

このように、「値踏み、比較する」人間の性質は、現代では悪い方向に影響していそうです。

 

値踏み、比較することから解き放たれれば、つまり、狭い世界に生きていれば、それなりに幸せなこともあるのです。

 

以上です。