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目次

  
  1. アメリカがイノベーション大国である主な3つの要因
  2. 「「超」情報革命が日本経済再生の切り札になる」からの引用・まとめ
  3. その他の要因とアメリカの起業家の状態
  4. アメリカの起業やイノベーションの現状
  5. 日本の起業の状態とアメリカの優秀層と日本の優秀層
  6. 日本の授業と理想の大学受験
  7. センター試験の目的と個人的意見
  8. 補欠合格の話
  9. 朝日新聞の3月9日(月曜日)の広告特集の内容のまとめ
  10. 私の意見

 

アメリカがイノベーション大国である主な3つの要因

  

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第10章 「私が考える理想の大学受験制度とイノベーターを量産するための秘策」

 

今まで、日本のイノベーターの不足の原因を日本の国民性や教育に求めてきました。ですが、本当に大事な視点を忘れていました。

 

日本でなぜイノベーターを量産できないのか?を分析するより、アメリカでなぜイノベーターが量産されるのか?という分析の方が正しい着眼点でしょう。

 

中国、インド、韓国、欧州などでもイノベーターが量産されていません。日本だけじゃないのです。アメリカだけが量産されています。ということは、アメリカの分析をするべきなのです。日本の良さを活かしながら、アメリカの良さを取り組む工夫が必要でしょう。

 

アメリカがイノベーション大国である主な3つの要因とは?

 

1 歴史的要因。

 

アメリカはヨーロッパ大陸を捨てた人々が建国した国です。そして、ヨーロッパ大陸とは、異なる文化を創造してきました。イノベーションに求められる「非連続」の文化が、アメリカには根付いています。逆に、ヨーロッパ大陸や日本は伝統や格式を重んじるので、過去を捨てきれていません。よって、非連続的なイノベーションが生まれにくいのです。

 

2 国民性。

 

アメリカは集団や組織より、個人、特に英雄を特別視する国民性があります。組織という概念は、既存の価値を基にした技術革新には有効です。ですが、組織の弊害として、過去を断ち切る必要があるイノベーションには向きません。個性や強烈なパワーを持った起業家がイノベーションを起こします。そして、アメリカにはそれを許容する国民性があります。

 

もっと詳しく書きます。脳神経科学者の中野信子さんの意見では、73%くらいの日本人が保守的なフォロワーであり、27%くらいの日本人が新しい法則を作りたがるゼロイチ(0から1にする)の人だそうです。

 

対して、アメリカ人はフォロワー派が5割を切ります。つまり、日本人は「出る杭を打つ」保守的なフォロワー層が圧倒的に多数派なので、イノベーションが起こりにくいし、格差も比較的小さいと思われます。

 

アメリカはフォロワー数が少ない、つまり改革派が多数派なので、イノベーションに向いているのです。アメリカでは、なぜ、あんなに起業が盛んなのかといえば、やはりこの国民性は無視できないと感じます。

 

では、日本はどうすればいいのでしょうか?日本は、少数の改革派を保守的なフォロワー数がその価値を認めて、ついていけばいいのだと思います。「出る杭を叩く」のではなく、認めないといけないのです。

 

日本は和の文化もあり、余計に「出る杭を叩く」文化があります。アメリカば他民族国家であり、自己責任であり、アメリカンドリームの国であり、格差を容認しています。

 

日本は和であり、平等意識が強いので、格差を認めたがりません。よって、出る杭を叩きます。それはイノベーションを摘むことになるにもかかわらず。日本は、27%の少数の改革派が主導権を握らないと、ビジネスの世界ではじり貧になるかもしれません。

 

3 社会制度。

 

アメリカでは、起業家を資金面で支援する「ベンチャー・キャピタル」の制度が確立しています。セコイア・キャピタル(アップルやグーグルを支援)やクライナー・パーキンス・コーフィールド・アンド・バイヤーズ(KPCB、アマゾンやグーグルなどを支援)など多くのベンチャー・キャピタルが、新興企業の資金面や経営面の支援を行っています。

 

日本の間接金融、つまり、民間銀行は収益の見込みが無い事業に融資しません。

 

 

「「超」情報革命が日本経済再生の切り札になる」からの引用・まとめ

「「超」情報革命が日本経済再生の切り札になる」のP173~175を引用・まとめをします。

 

 

日本のベンチャーキャピタルの投資額は、06年度の2790億円をピークに減少傾向にあります。09年度の875億円を底に、10年度以降は緩やかな増加傾向にありましたが、再びリーマンショック直後の水準まで減少しています。

 

日本のベンチャーキャピタルの多くは、銀行、証券会社などの関連会社であり、リスクマネーを供給しづらいのです。

 

アメリカのIT関連のスタートアップ企業の多くは、収益モデルを確立する前に、ベンチャーキャピタルからの出資を得ましたが、日本のベンチャーキャピタルが同じことをできるのでしょうか。

 

ベンチャー企業が成長して一定の段階に達したら、ベンチャーキャピタルから卒業します。この「エグジット」と呼ばれる形態として、M&AIPOの2つがあります。

 

前者は他の企業に買収されてその一部になることです。後者は株式市場に上場することです。日本の大型IPOは、新生銀行第一生命保険日本航空リクルートホールディングスなどであり、ベンチャー企業のエグジットではありません。以上、ここまで。

 

その他の要因とアメリカの起業家の状態

日本のベンチャーキャピタルが機能してない現実が浮かび上がります。アメリカでは1980年代には、ベンチャーキャピタルは否定的に捉えられていましたが、現実は大成果を挙げました。

 

また、クラウドファンディングという手法もあります。映画、音楽などのクリエイターや、製品・サービスなどのアイデアを持っている人が、インターネットでアイデアを公開し、それに共鳴した人達が資金を出資する仕組みです。

 

他にも、アメリカには労働市場における流動性が高く、それらはイノベーションを生みやすいです。アメリカでは高いスキルを持った技術者や有能な経営者が退職して、起業するケースが多いのです。

 

アメリカの起業家の平均年齢は上昇傾向にあり、起業活動が最も盛んな年齢は55歳から64歳であるとのこと。(アメリカの起業家の平均年齢は40歳前後であり、たいていはどこかの大企業でキャリアを積み、たしかな人脈を作ってから起業します) 

 

年配の技術者や経営者が、起業家として情熱を持ち、リスクを恐れずに起業活動に積極的に取り組んでいるのです。多くの技術者や経営者は、既存の企業に勤めながら次のイノベーションに取り組みます。そして、創業した新たな会社では画期的なイノベーションが生まれる余地があります。

 

国民性や教育の他に、歴史・社会制度・労働市場まで、アメリカは起業に有利になっていると言えるでしょう。

アメリカの起業やイノベーションの現状

また、アメリカの起業やイノベーションの現状を紹介します。

 

アメリカでは、連続イノベーション(改善するイノベーションのこと)は、大企業がやります。既存の市場・顧客を相手にビジネスをするのです。

 

非連続イノベーション(顧客を創造するイノベーションiPodiPhoneなど)は新興企業(スタートアップ)がやります。非連続イノベーションにより、連続イノベーションの市場が駆逐されます。改善だけやっていたら、新たな技術などを使った製品・サービスなどにより、従来の顧客を奪われます。

 

だから、大企業は、非連続イノベーションの脅威を心配しなければなりません。ですが、非連続イノベーションを新興企業がやってくれれば、大企業は失敗のリスクを負うこともないし、従来の連続イノベーションも続けられます。

 

もちろん、新興企業を買収するという条件付きです。将来、脅威となりそうな非連続イノベーションを持った企業を買収するのです。そして、連続イノベーションでは敗北しそうな場合、買収した非連続イノベーションの技術で、新市場に対応します。これが棲み分けです。

 

懸念点としては、大企業が非連続イノベーションの開発に消極的になって、非連続イノベーションが生まれなくなることが挙げられます。新興企業が非連続イノベーションを創造し続けることができるのか?やそういう新興企業が現れ続けるのか?という懸念です。

 

大企業の新規事業への参入が減り、新興企業も現れないとしたら、確率的に非連続イノベーションの芽が下がるかもしれません。アメリカの現状はこうなっています。

 

また、日本の起業における最大の問題は大企業がベンチャーを支援しないことです。ベンチャー推進の決め手は大企業です。ベンチャーの顧客は大企業ですが、大企業が保守的であり、新規事業に手を出しません。買収事例も少ないのではないでしょうか。

 

アメリカは棲み分けができており、ベンチャーの出口戦略として買収があります。

 

日本の起業の状態とアメリカの優秀層と日本の優秀層

また、日本の場合、大企業が政府に働きかけて、規制をかけてベンチャーを潰しているという話すらあります。ベンチャーの資金調達はアメリカと比べたら楽な方です。

 

ですが、肝心の起業家人材がアメリカと比べて少ないのです。本来なら、日本の高学歴層が大企業志向じゃなくて、ベンチャー志向になり、新しいことに挑戦するべきです。

 

大企業が支援したり、買収してくれたりしたら、リスクが減り、高学歴層も挑戦できるかもしれません。日本の真の問題はここにあるのかもしれません。

 

ベンチャーを大企業が支援しないのは問題です。ベンチャーの出口戦略がなく、高学歴者がリスクを怖がるからです。

 

高学歴最優秀層は外資系や法曹や官僚や研究者や学者や大企業に行くと思われます。起業に目を向けません。もしくは、リスクが少ない医者に高学歴層が群がります。

 

また、アメリカの優秀な学生はもう年収1000万円以上が保証されていると言えます。Googleなどに入れば、高収入がほぼ確実です。

 

しかし、アメリカ人の優秀層は年収1000万以上が保証されているのなら、ゲーム感覚で起業しようとなります。さらに、Googleを打ち負かす企業を作ろうとなるのです。

 

失敗しても、箔がつき、大企業に入り、年収1000万以上は確実でしょう。そこにはリスクはありません。

 

対して、日本の優秀層は日本企業ではそのような保証はありません。だから、リスクを怖がり、外資系>法曹や官僚や研究者や学者>大企業、さらには医者に群がるのです。

 

日本でも、アメリカと同じような環境下になれば、リスクがなくなるわけですから、起業はもっと促進されると思います。

 

日本の授業と理想の大学受験

ここからは違う話題に。

 

日本の高校では、一方的授業で受け身であり、アメリカの高校のようにグループディスカッションがほとんどありません。アメリカのSATは詰め込みですが、グループディスカッションでアウトプット力も鍛えられています。

 

日本はインプット偏重なのはやはり問題です。大学入学後も、マンモス大学だと大教室での授業が多いです。ゼミだとグループディスカッションできます。

 

グループディスカッションができないと、アウトプット力は高まらないと思われます。知識を詰め込んでばかりでアウトプットしないのでは意味がないです。

 

日本の理想の大学受験とはどんな姿なのでしょうか?私なりに提案してみます。まず、大学受験はどんな目的でどんな人材を採りたいのか明確にすべきでしょう。

 

各大学間で、求める人材像は異なります。そして、異なるからこそ、慶應と早稲田では問題形式が相当異なるのでしょう。

 

慶應は、国語は現代文・古文・漢文がなく、小論文です。また、歴史は、1500年以降という近現代だけという学部すらあります。私立は、各大学が試行錯誤して、採りたい学生を採ればいいと思います。

 

問題は、センター試験です。センター試験は多くの受験生が受けるわけですが、この試験は改善の余地がかなりあると思います。

 

センター試験は主に、国立大学を受ける層が中心です。まず、国語を課す必要があるのかという疑問です。センター試験の国語は、評論、小説、古文、漢文から成っていますが、そのうちの小説、古文、漢文の存在意義が疑問符です。

 

小説とは、解釈が異なっても良いと思って著者は書いている場合が多いです。自由に解釈してもらって楽しんでもらおうというのが小説です。なのに、出題者は、その著者の趣向を無視して、一義的に決まる解釈を解答にして押し付けます。

 

小説がセンター試験に課されるのは、小説の啓蒙のためだと思いますが、センター小説を読んだだけで、小説の良さが分かるのでしょうか?小説は、個人で好きな人だけが読めばいいのではないでしょうか?大学に入ってから、小説を使う場面が来るのでしょうか?

 

小説は情緒力がつくので、読んだほうがいいと個人的には思っていますが、センター小説を過去問含めて読んだぐらいでは、情緒力もつかないし(全体を読んでないため)、小説の啓蒙にも役立っているとは思えません。

 

つまり、小説をセンター試験に課す意義が分かりません。そして、古文、漢文ですが、これらは文学部では必要かもしれませんが、他の学部で果たして使うのでしょうか?

 

古文・漢文の背景知識だけは役立つ可能性があります。三国志項羽と劉邦のマンガは役立ちます。ですが、昔の文章を読めるようになったからといって、今更、何になるのでしょうか。

 

そういう訓練は、専門家がやればいいだけではないかと思います。(つまり、文学部限定)そういう意味で、センターの小説、古文、漢文は時間の無駄だと思います。

 

評論文すら、私は疑問符に思っていますが、センター試験に国語を残したいなら、評論文4題にすべきでしょう。そのほうがマシです。

 

センター試験の目的と個人的意見

ここで一度、原点に戻ります。そもそも、センター試験は何を目的に行われているのでしょうか?大学入学後に、授業についていける基礎学力を測るためでしょうか?センター試験だけでは、東大などの難関大学の授業にはついていけないため、2次試験があり、測られていると言われています。

 

センター試験は、情報処理能力を測られているようです。対して、国立大学の2次試験は思考力中心だそう。2つを併せて、大学の授業についていける学生を選抜しているようです。

 

ここで、個人的意見を書きます。東大などを受ける層では、センター試験では差がつきにくくなっています。理由は、出題範囲が高校学習の範囲内だからです。大学受験は、定員があるため、基本的に落とすための試験です。そこでは、TOEICや英検などのような絶対評価ではなく、相対評価です。

 

どうしても、差をつけないといけない試験なのです。出題範囲が狭いと、差がつきにくくなります。そのため、東大などでは、科目数を増やす作戦に出たと思われます。科目数が増えると、出題範囲が広がるのと同じ効果があります。

 

本当は、高校の学習範囲内という出題範囲自体を疑問視すべきなのですが、それをやると、普通の高校では対応できなくなります。

 

私の改善案は出題範囲を高校学習範囲内で収めるしかないならば、科目数を増やすしかないということです。そして、国立大学は2次試験で、独自の趣向で採りたい学生を選抜すればいいわけです。

 

センター試験は、情報処理能力を測りつつ、基礎学力を測る目的で存立すべきかもしれません。情報処理能力というスキルは、実はある程度、必要です。情報処理能力については後で述べます。そして、国語は存立させたいならば、評論文4題にするほうがマシです。

 

補欠合格の話

また、東大、京大に限り、補欠合格を設けたらどうでしょうか? 従来の補欠合格は辞退などがあったら入学させないといけませんでしたが、東大、京大の補欠合格は入学はさせないようです。

 

絶対評価は基準に達しているかを見ているのに対し、相対評価は落とすためであり、過剰な競争であるといえます。よって、数点差以内であれば、補欠合格という称号を与えるのはどうでしょうか?

 

従来、企業は大学の厳しい入学試験を突破したという思考力やOS力を重視してきました。ならば、東大、京大に数点差以内に落ちたという学生は、思考力やOS力では合格者とそこまで差はないはずです。

 

これを導入すれば、学歴の価値が再考されるきっかけとなると思います。合格したという時点での人物が本当にいいのか?という視点です。補欠合格者も実力は大して変わらないのですから、採ってもおかしくはないはずです。

 

ですが、企業側は合格していないという結果に目を向ける気がしています。補欠合格という称号に違和感を覚えるのでしょう。東大、京大ブランドであり、シグナル重視なのです。補欠合格者の称号を認めると、合格だけしておいて、入学せず、起業のための準備をする学生が出てくるかもしれません。

 

企業は、合格というシグナルを重要視しているわけですから、補欠合格でも称号があるので、安心感が出るというわけです。もしくは、補欠合格社は、違う大学に進学するかもしれませんが。この案はぜひ取り入れて欲しいです。

 

朝日新聞の3月9日(月曜日)の広告特集の内容のまとめ

朝日新聞の3月9日(月曜日)の広告特集の内容をまとめます。文科省(下村博文文科相)は2020年度からの大学入試改革を明治時代に学制が始まって以来の教育改革だと考えています。

 

知識・技能偏重から、「思考力・判断力・表現力」「主体性・多様性・協調性(協働性に表現が変わった)」を踏まえて総合的に判断するものに変えようとしています。

 

戦後の復興期から高度経済成長期にかけては、企業に求められたのは「もっとたくさん」「もっと安く」「もっと均質に」でした。その社会を支えていたのが「ちゃんと」「早く」「いい子に」できる人材でした。

 

ですが、現在は、ひとつのモノをたくさんつくっても、在庫があふれ赤字になるだけ。人々の好みもバラバラになりました。「もっと安く」「もっと均質に」は、中国や韓国に取って代わられました。

 

「もっとたくさん」「もっと安く」「もっと均質に」という正解があったときに重要だったのは、1秒でも早く正解にたどりつくための「情報処理能力」でした。

 

大学受験でも、主に情報処理能力が問われていました。ですが、衣食住が整い、物質的豊かさが満たされた現代では、心の豊かさが問われるようになりました。心の満足は、人によってバラバラだから、「一つの正解」ではくくりきれません。

 

従来型の勉強は正解ありきでつくられた「成長社会」に必要な力を身につける「プログラム」でした。「成長社会」が終わり、正解がない「成熟社会」となった今は、新しい力を身につけなくてはいけません

その新しい力が「思考力・判断力・表現力」「主体性・多様性・協調性」というわけです。正解のない時代に必要なのは、例えればブロックを組み立てる力。

 

手持ちの情報(ブロック)を組み合わせ、頭をフル回転させて、自分だけの新しい答えを「編集」していく力。つまり、「思考力・判断力・表現力」です。以上が、簡単なまとめ。

私の意見

思考力とは論理力思考力、哲学的思考力、数学的思考力などがあります。論理力だけでは人間は動きません。感情があるからです。人間との対処の時に必要なのは情緒力みたいな力でしょう。情緒力みたいな力は、判断力の範疇に入るのでしょうか。

 

情緒力=判断力であれば、人間との対処で役立つでしょう。論理的思考力だけでなく、情緒力(判断力)で、情報処理、人間との対処に対応可能です。

 

表現力は文章とプレゼンテーション、さらにはプログラミングなどの成果物を全て含む、アウトプット力だと思われるので、適切かと思います。

 

主体性は大事ですが、協調性が含まれるのが気になります。主体性ということは我が強いということであり、協調性とは反対の概念か、相容れない可能性があるからです。主体性を持ちつつ、協調するという高度な手腕を求めているのでしょうか。

 

協調性より、チームワーク力といった方が適切かもしれません。(と書いていたら、協調性は、後に協働性に表現が変わっていました。さらに共同性に変わっているかもしれません)

 

日本企業の強みは全員経営であり、結束力なので、チームワーク力といえば、分かりやすいです。多様性は、人類が生き残るには必要な概念です。

 

多様な人材がいた方が片方が倒れたとき、もう片方が対応してくれるからです。画一的な人材ばかりになったら、意見もアイデアも陳腐になります。ニーズが多様化した現代では多様性は大事な概念です。

 

問題点として、公平さが失われます。この本でも何度も主張しましたが、今までの知識偏重の大学入試は、点数化が簡単であり、採点者の恣意性も排除され、公平でした。

 

地道な努力が報われる点が従来の大学入試でした。ですが、思考力・判断力・表現力という力は、採点者によって左右されやすい試験内容となりえます。

 

思考力(論理的思考力、数学的思考力はOK。哲学的思考力は?)を、センター形式のペーパー試験で深く測るのは難しいと思われますが、判断力・表現力にも疑問があります。

 

どうやって公平に採点するのかという点です。特に、表現力となると、小論文か面接になるでしょうから、採点者によって評価が変わります。

 

そもそも、正解がない時代に対応しようという大学入試は正解のない大学入試試験であり、正解がないということは採点者の恣意性に左右されるということです。今までの知識偏重は少なくとも正解があり、公平でした。

 

今の時代にそぐわない試験なのは事実ですが、正解のない問題(解釈が自由)では、採点が難しく、公平さも失われます。その問題点をどう克服するか?が課題でしょう。

 

個人的な意見では欧米のように、大学が採りたい人材を取ればいいと思います。公平さなんて気にしていたら、採りたい人材が採れません。

 

育ちの良さなども関係してくる難しい問題ですが、そもそも高学歴だからといって人生の成功が保証されているわけでもありません。育ちが悪く、採点者に気に入られなくて、大学入試に落ちたなら、起業を選んで逆転すればいいとも思います。

 

私の本は、参考文献からかなりアイデアを借りました。参考文献を掲載したり、引用元を示したりしたのは、著者に敬意を示したためです。ちなみに、引用は、多少、内容ではなく、文体や形式や長さを変えていることはご承知ください。

 

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参考・引用文献。

 

「「超」情報革命が日本経済再生の切り札になる」

 

 

 

朝日新聞の3月9日(月曜日)の広告特集